『訓点語と訓点資料』2011年9月(127集)pp.120-131.
現在観察できる平安時代の言語資料に含まれる単語には位相的にいろ いろな種類のものがあり、そのひとつの種類として、和文系の語彙と訓 読系の語彙という形の区別があるということが明らかになったことは、 訓点語研究史の中できわめて大きな成果の一つと言える。また、それら の中でかなりの数の語彙が、和文特有語(「いみじく」「されども」「す・ さす」または訓読特有語(「はなはだ」「しかれども」「しむ」等)といっ た形で明確な使い分けがあることも研究されてきた(築島 1963 )。しかし、 残された多くの語については、それらが位相的な性格において中立であ るものなのか、あるいは特殊な位相の語であるのかといったことについ て、不明な点もまだ多い。ところで、一般に、和文の文学の研究におい て、特に和漢比較研究の立場から見ると、漢籍から得られた知識や表現 が日本の古典文学の作品形成上に大きな影響を与えていることが知られ ている。しかし、その影響の大きさに比して、和文の文学作品中に訓読 文に由来する語彙がそれほど多くは存在しないように見えることは、稿 者の考えではやや奇異なことに思われる。そこで、本論文では、先の位 相の問題と絡めて、従来研究対象となってこなかったと思われる語彙に ついて、訓読系の語彙と和文系の語彙との交渉という観点から、調査してみることとする。(土井 1991 ・金子 1998 などが、別の観点からこの問題に 触れている。)
ところで、和文系・訓読系の語彙を計量的に分析した研究の最初のも のである築島 1999 では、『源氏物語』と『大慈恩寺三蔵法師伝』古点(和 訓)のそれぞれの異なり語彙を相互に比較し、一方には存在するが、他 方には存在しない語を算出すること(以下、この処理を「引き算」と称 する)により、それぞれの資料の語彙の特徴を求めることを行った。 慈恩傳 - 源氏=訓読(点)特有語 源氏 - 慈恩傳=和文特有語 この手法は語彙論の上できわめて有効な研究手段であり、現在でもそ の有効性は損なわれていないと考えられる。そこで、本論ではコンピュー タによる大量処理によって、さらに別の角度からこの手法を応用してみ たい。